名誉教授・物理学第二教室出身 中村 卓史
私が京都大学に入学したのは1969年度で、東大入試が安田講堂攻防戦等の混乱のためになかった大変な年でした。志望校を決めたのは、高校で読んだ本に、DNA発見のノーベル賞論文がわずか600語だったとあったのが主な理由でした。「そりゃ、面白い!きっと生命の起源を全部明らかにできる。」と早合点して、生物物理のある理学部を、機動隊に守られて雪の中、受験しました。入学式は全共闘によって粉砕され、教養部も封鎖されていたので半年程講義もありませんでした。我々ノンポリ学生は仕方なく自主ゼミを始めたり、学部の講義を聴きに行きました。生物物理の研究会を覗いたところ、DNAから何もかも解る程生物は単純ではないと聞き、いつの間にか物理学教室で相対論的天体物理や星の進化をやっていた天体核研究室の院生になり、オーバードクターで苦労した後、いつの間にか教授として戻って来て、あっと言う間に14年が経ち停年になったという次第です。教訓めいた事は
- 我々の学年が特別にできの悪い学生だったと言う話は聞きません。つまり、半年くらい大学の講義がなくても、長い人生にはあんまり関係がありません。 特に自主ゼミというのは本来の大学の姿ではないかと思います。
- 専門を緩やかに決めると言う理学部の制度がなければ、私の場合、生物物理を続けていたと思います。それが吉となったか凶となったかは神のみぞ知るところです。
- 私が入学した時、父は58歳で、停年でした。でも、当時の授業料は月千円、吉田の生協で100円で昼食が食べられました。奨学金は月3千円です。だから、家庭教師をして、父が無職でも大学を卒業出来ました。現在は授業料は月4万円くらいですから、当時に置き換えると月8千円で、私は入学できなかったでしょう。喫緊の課題は授業料を安くするか、入学前に授業料免除を保証する制度を作る事です。そうしないと非正規労働者が40%にもなっている我が国の人材確保が困難になります。
- 私は理論ですので、パソコンさえあれば、たいがいの事を自宅で出来ますから、研究に関しては停年と言う感覚はゼロです。特に学生と同じst.kyoto-u.ac.jpというメールアドレスとIDを頂いたので電子ジャーナルにもアクセスできます。現在は2001年に提案した0.1Hz帯の重力波検出衛星DECIGO(DECi herz laser Interferometer Gravitational wave Observatory: 地球が太陽を回る軌道上に地球から太陽に対して20度くらい後ろを進行するように投入する最低3機の人工衛星からなるレーザー干渉計)が早急に打ち上げられるように、それによって得られる未知の世界の理論的な研究に没頭しています。特に昨年の9月に重力波が初めて直接に検出されたので、DECIGO打ち上げの追い風になっています。と言う訳で研究生活に終わりはありません。